エストニアの医療分野におけるブロックチェーン活用

編集部

IT大国エストニアとは

エストニアは旧ソ連から独立した1991年以降、「IT立国」を国策として掲げてきた国だ。人口わずか130万人で、これといった産業はなく、近隣諸国に大きなマーケットがあるわけでもない。

そのため、当時普及しつつあったインターネットの技術をインフラとして積極的に取り入れ、オンラインバンキングや電子投票などが発達する世界有数のIT先進国を目指した。民間へのインキュベーションにも積極的で、2003年に首都タリンで設立されたSkypeは今や世界中の人々が利用するチャットサービスとなっている。

サイバー攻撃をきっかけにIT立国を掲げる

一方で、IT先進国というのは、それだけ「ITへの依存度が高い国」と捉えることもできる。ITインフラがダウンすれば国民の生活レベルで大きな影響が出るのだ。そして、それが実際に起こったのが、2007年のWW1(Web War I)である。

2007年4月27日、突如としてエストニア政府機関のウェブページに世界中から大量のアクセスが寄せられ、政府のみならず主要メディアや銀行のサーバーが次々にダウン。国民は情報から隔離され、キャッシュレス化が進んでいたことが仇となって、物品の購入にまで支障が出るようになった。結局サイバー攻撃は3週間に渡って行われ、その間政府は、有効な対抗策を講じることはできなかった。

これをきっかけに、エストニア国内ではスケーラブルでセキュアなITインフラの開発が求められた。このサイバーアタックと時期を同じくして誕生したのが、首都タリンのサイバーセキュリティ企業、Guardtime社である。

エストニアのブロックチェーン導入事例

Guardtime社の誕生とKSIブロックチェーン

Guardtime社はビットコイン誕生以前より複数の暗号学者を擁し、電子署名やハッシュツリーなどの技術研究を行っていた。エストニアにとってもサイバーセキュリティは喫緊の課題であったため、「既存のDBの可用性を損なうことなく、データの完全性を保証し、改ざんされにくい」技術の開発が求められた。

そこでGuardtime社が開発したのが KSIという技術である。KSIとは“Keyless Signature Infrastructure”の略であり、「キーレス署名基盤」=「暗号鍵を使わずにデータの真正を検証できる技術」を意味する。ここにタイムスタンプを持たせ、ハッシュ値を連鎖できるようにすることで、対改ざん性を高めたのだ。

この技術は2007年頃から研究されていたため、ビットコインの先駆けと言ってもよい。現在主流となっているブロックチェーンとは異なるものの、データブロックを連鎖させていく仕組み自体は同じであるため、Guardtime社はこれを「KSIブロックチェーン」と呼んでいる。現在エストニアで利用されているブロックチェーンは、このKSIブロックチェーンである。

(BitcoinやEthereumのブロックチェーンと根本の部分では同じ仕組みが使われている/出典:Guardtime

ブロックチェーンで管理された医療データベース

ブロックチェーン技術が活かされるのは、本来ひとつであるはずの情報が散り散りになって管理されている場合だ。そしてそれが非常に顕著に現れている分野のひとつが医療である。

日本では患者の診断結果は各病院のカルテで管理されている。行く病院が変わると「初診」となり、また一から診察が始まり、新しい診察券をもらう。薬局へ行くと任意で「お薬手帳」の提示が求められるが、あくまで任意であり、当然普及率は100%ではない。過去に患った病気やアレルギー反応を記入する機会も多いが、自分の幼少期の病歴をはっきりと把握していない人もいるはずだ。生命保険加入の際も外部のエビデンスがないため、全て自己申告で健康状態を「告知」している。

個人の病歴や診察履歴、薬の服用履歴など、本来であれば本人に紐づくべき情報が、サプライヤー側でばらばらに管理されているため、ともすれば本人すら自分の医療情報を把握できていないという状態になっているのだ。

一方で、エストニアの医療システムは、日本のそれとは全く異なる。すべての国民はID番号を付与されており、それに紐づいた形で個人情報が管理されている。情報は全て暗号化されており、それを複合化できるのは警察を除いて本人のみである。

医療に関する情報もその中のひとつで、日本のように患者側がいちいち自分の症状や病歴を伝えなくても、医師は適切な診察を行うことができる。「いつ」「どこで」「誰の診断を受け」「どのような薬をもらい」「症状がどうなったか」といった情報がどの病院でも瞬時に把握できるのだ。

さらに、ユーザーは誰かが自分の情報にアクセスしてきた場合、その履歴を見ることができる。タイムスタンプによってアクセス履歴が記録されているので、いつどこで誰が情報を見に来たのかを瞬時に把握することができるのだ。「誰に」「どこまで」情報開示するのかをユーザー側が自由に決められることも、ブロックチェーンを使うメリットといえよう。

プラットフォーム競争は負のネットワーク効果をもたらす

他国が実証実験の域を出ない中、エストニアで既にブロックチェーンの実用化が進んでいるのは、独立以来「IT立国」を掲げてきたことよりも、国自体が非常に小さくシンプルであったことの影響が大きい。政府と国民の距離が非常に近いため、うまく合意形成を図りながら、技術をアップデートできているのだ。

裏を返すと、どれほど素晴らしいブロックチェーンの技術があっても、一定数以上のユーザーが利用しなければ、劇的な効果は得られない。仮想通貨の世界が正にそうであるが、複数のプラットフォームが乱立した結果、ユーザー層が分散してしまい、ネットワーク効果が得られにくくなっている。クロスチェーンやユーティリティトークン同士の連携など、徐々に汎用化が進んではいるが、通貨の種類が多すぎるため、なかなか目立ったユースケースがでてこない状況だ。

なお、アメリカでは、電子カルテのプラットフォームが20種類以上、日本でも数年前からスタートしたお薬手帳アプリが既に複数種存在するという状況である。仮に各々がブロックチェーンを導入したとしても、ユーザーはあまりメリットを得られないだろう。「イニシアチブをとって他社と差をつけたい」というごく自然な欲求が、イノベーションを阻害しているのである。

エストニアから学ぶべきは、ブロックチェーン技術そのものではなく、各事業者のインセンティブを満たしつつ、ユーザー目線で開発を行うマネジメント体制なのかもしれない。