ブロックチェーンはGAFAを打ち負かせるのか

島田 理貴

Googleのイメージ

ブロックチェーンはビットコインをはじめとする暗号資産によって、不当に低く評価されている——「ブロックチェーンは」ボラティリティを制御できないという評価は、芽を摘むこと以外になんの役にも立たない。

とはいえ、ブロックチェーンがなにかの役に立つだろうという社会的コンセンサスは徐々に形成されつつある。おそらくどこかのタイミングで、大規模な導入のターンが開始され、一気にインフラとして普及することになる。

ではどこが最初に大量導入を決めるのだろうか。ステーブルコインを推進する中央政府機関か、あるいは大きな金融機関か、海を股にかける港湾事業者連合か。

ここで1つ疑問を提起したい。GAFAはいまなにをしているのかという疑問だ。いや、Facebookについてはあきらかだろう。連合を組織し、Libra(リブラ)の開発やロビイングに邁進しているところだ。だが、他の巨人たちは、殊にブロックチェーンとなると、鳴りを潜めてはいないだろうか。

GAFAが生みだす奴隷たち

奴隷のイメージ
仮に、テクノユートピアンのGeorge Gilder(ジョージ・ギルダー)に倣って、ブロックチェーンを「未来」だとしよう。すると、やはり現在はGoogleやAmazonというデータサーバーから世界の覇権を握る「帝国」の時代ということになる。

帝国の暮らしは大変に便利なものだ。Amazonで買った鉄のフライパンの上に、Amazon Freshで買った卵を落として、黄身が半熟になるのを待ちながら「OK Google、ニュースを流して」と丸いスピーカーに問いかける。これが筆者の朝のルーティン——Google万々歳である。

だが、これらすべての行動の背後には多かれ少なかれ大帝国の意志が働いている。我々の人生は、徐々に隷従の度合いを強くしているのである。

いまをときめく哲学者Markus Gabriel(マルクス・ガブリエル)は、我々が帝国のためにタダ働きする「デジタル・プロレタリアート」になりつつあることを指摘している。言い得て妙ではないだろうか。

我々は「GAFA帝国」のもたらした恩寵と弊害を同時に承認しているアンビバレントな時代人だ。しかし、このアンビバレントな存在であることに甘んじて、未来をこのまま帝国に委ねていいものなのだろうか。

たしかに、それらはひどく便利で、筆者の「朝」は帝国のもとでのみ可能な営みだ。だが、自分で情報を選択することを、自分の目で品定めすることを、自分の頭で考えることをやめたとき、我々の人間性とはどこに、どのように宿るというのだろうか。

人間性の変容という問題だけではない。単純に帝国の中核であるデータサーバーが吹っ飛んだときにいかなる事態が待っているのか誰にも想像することはできない。

あるいは、何世紀もの期間に積み上げられ、洗練されてきたライブラリーは、もはや一部の物好きの「愛好」としての価値ばかりになりつつある。なぜか。それはGoogleが情報のゲートウェイを独占してしまっているからである。

Googleの検索エンジンが、容易に検閲システムに転移できることは、中国当局が検閲目的で開発を依頼していた「Dragonfly」の一件で誰もが知ることとなった。独占は独裁につながるというわけだ。

また、ウェブサイトの作成者たちは、SEO(検索エンジン最適化)に躍起になり、情報の正確性、厳格な引用ルール、コンテンツを生みだす熱意など二の次、三の次……さながらGoogle帝国に従順な臣民たちだ。さらには手に負えないことに、彼らがあくせく働いてくれたおかげで、情報を求めている人々の側も、知識をインスタント麺かなにかと勘違いしはじめている。まるで奴隷制の再来ではないか。

便利な暮らしを享受するあまり、我々はなにか重大な事柄を忘却しはじめている。だからこそ、中央のデータサーバーに居座った巨人たちに対抗しうるなにかをみつける必要がある。

ブロックチェーンはGAFAに対抗できるのか

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幸いFacebookを除いた巨人たちは、ブロックチェーンに関心をしめしていない。というより、おそらく巨人たちは、ブロックチェーンについてみずからを脅かすものだと考えている。

実際に彼らが表舞台でブロックチェーンを非難することはないから、ここではBraveのとりくみから巨人たちの思惑を推測してみよう。

Braveはオープンソースで開発されている、広告ブロック機能を有したウェブブラウザである。広告をブロックしてしまえば、一体なにから利益を得るというのか。

じつは、結局のところ広告から収入を得るのである。というのも、Braveは単に広告をブロックするのではなく、あくまでもトラッキングするような「嫌われる」広告をブロックし、その代わりに、ユーザーへ「控えめな」広告を表示するかどうかを選択させるのである。

もし、ユーザーが「控えめな」広告を表示した場合には、広告料の70%がユーザーに分配される。注目すべきは、この「広告料」が、Ethereumで発行されるBAT建てによるものということだ。

わざわざ暗号資産建てで支払うのにはわけがある。それは、Braveとブロックチェーンが統合されることで、Braveの運営者がユーザーのプライバシーに関与することなく、ユーザーがウェブ上のどこで時間を費やしたかを計測し、それに基づいて広告収益の一部をパブリッシャーに還元することができるのである。

要は、Googleのような中央集権的な運営者がいなくとも、勝手に収益の分配がおこなわれるしくみになっているのである。

このシステムは2つの問題を解決している。1つは、個人情報がユーザーの同意なく収集される帝国プラットフォームからの脱却。もう1つは、BATを中心としたトークンエコノミーが生じることによる、悪意ある広告の排除である。

他方で、広告収入に依存するプラットフォーマーたちはビッグデータを好む。とにかくデータを収集することで、個々人の差異とは関係のない新しい事実を発見し、これを元手に新たなビジネスにとりくむか、さらなるターゲッティングの洗練をめざすのである。

ここで、なによりも重要なのは、ビッグデータの集積は中央サーバーにておこなうのがもっとも容易いということだ。今後もより中央集権化を洗練させて、より効率的にデータを収集したいというのがおそらくプラットフォーマーたちのご意向である。

そのような彼らに「分散型台帳技術」すなわちブロックチェーンをみせびらかしたところで、食いつきが悪いのは当然ではないだろうか。ブロックチェーンは中央集権的なインターネットよりも遅いし、いままで誰かに押しつけていたセキュリティ対策も個々人がやらねばならなくなるのだ。

むしろそれに魅力を感じるのは、おそらく帝国や中央政府といった信頼ならない巨人たちに愛想を尽かした人たちだろう。匿名性やトレーサビリティ、耐改ざん性といった利点を有するブロックチェーンは、彼らにとって監獄の隠し穴にみえるのではないか。

巨人たちもブロックチェーン事業を開始

虎視眈々のイメージ
もちろん、彼らもブロックチェーン事業にとりくんでいないわけではない。Googleは、企業向けのビッグデータ分析サービスBigQueryに、ブロックチェーンのデータフィードを追加したり、オラクル・スマートコントラクトChainlinkの技術を統合したりしている。

また、Amazonは、BaaS(Blockchain-as-a-service)としてAmazon Managed Blockchainを提供しているし、Appleは米国特許商標庁にブロックチェーン関連技術の特許を申請している。巨人たちの側がブロックチェーンを間接的にコントロールしようとしているのかもしれない。

こういった巨人たちの動向がある一方で、ブロックチェーンを「中央集権的に」活用しようとする動きが力強くなっていることにも違和感を感じる。たとえば、中国共産党は先進国のなかではいちはやくブロックチェーンに目をつけており、デジタル人民元の開発や、諸産業へのブロックチェーン導入を急いでいる。

筆者は以前、記事のなかでデジタル人民元が監視ツールの一端を担う危険性について警鐘を鳴らした。帝国たちも、もしかしたら弱い個人にとって望ましくない形でブロックチェーンを活用する道を選ぶかもしれない。

いや、正直その可能性はかなり低いと思われるが、しかし、巨人の側でブロックチェーン活用の方途が模索されているとなると、Braveのような「抵抗手段としての」ブロックチェーンは立つ瀬がなくなる。

重要なのは、単一の管理者がいないにもかかわらず、1つのプラットフォームとして機能するようなブロックチェーンである。EthereumとDappsが生みだすエコノミーは、既存の金融業界やゲーム業界にとって脅威となりうるし、ユーザーにとっては、より広い価値観や新しいサービスを享受できるものである。また、自分がプラットフォームの管理者になる門戸はいつでも開かれているのだ。

ブロックチェーンの分散化の夢は、かつて虐げられてきた人たちが手にするべきものである。易々と巨人に受け渡してしまっては、ブロックチェーンの世界で尽力してきた多くの人たちが報われない。そして世界の新しい階級構造も微動だにしないだろう。

……とはいうものの、じつは筆者はGoogleやAmazonの存在に対してはきわめて肯定的である。彼らはあくまでもテクノロジーの進歩と歩調をあわせているだけだろうし、我々の側がテクノロジーにあわせて生きていれば、むしろ彼らの存在は正義ですらあるかもしれない。帝国がもたらす弊害も、旧来的社会構造が生みだすものと比較すれば、まだかわいいものだといえなくもない。

最後の最後に論を捻じ曲げてしまって恐縮だが、明確に筆者の立場を表明しておくならば、GAFAをはじめとする幾多の巨人たちと、ブロックチェーンとは相補的な関係にあるべきだと思っている。

今回このような記事を執筆したのは、相補的な関係をめざすためにもプラットフォーマーとブロックチェーンの関係を一度否定的にとらえてみたかったからである。近年のブロックチェーン導入に関する報道をみていると、どうにも一般の個人にとっては喜ばしくない方向に業界が発展していってしまっているように感じられる。

一度「大きなものと小さなもの」とか「速いことと遅いこと」などといった素朴な比較の観点に立ち還って、冷静に考えるべき時間が必要なのではないだろうか。

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